「寄り添って欲しい」とか「もっと理解して欲しい」なんてことを身近な人には要求しがちです。
それは、近ければ近いほど強い要求になります。
一体、それはなぜ?
逆に自分が相手に寄り添っているのにも関わらず、相手に「理解が足りない」と罵倒されてしまった経験はありませんか?
私自身も夫に何度も「わかってくれない!」と詰め寄ったことがあります。
これらの謎を解くカギは
印象を決めるのは誰なのか?
という視点です。
この記事では、自分と相手という2つの視点で問題を見つめていきたいと思います。
人間の悪い癖|「オレは」「私は」で物事を考える
結局、寄り添いなんかじゃなくて、
お互いの自己主張になっていることに気づいたことはありますか?
「オレは話を聞いてるじゃん!これ以上どうしろって言うんだよ!」
「私は、あなたに寄り添って欲しいだけなのに、どうしてわかってくれないの?」
私自身も何度も夫とこんな口論をしたことがあります。
どうして、こんな言葉が飛び交うのでしょうか…
この答えは、お互いの中にシナリオが存在していることに問題があります。
こんな公式を創り上げているものです。
ところが、現実は、そんな理想通りの展開などありません。
少なくとも、この記事を読んで下さっているあなたの中には、モヤモヤするものがあるはずなので、自分の欲しくない回答(展開)があったのだと思います。
夫婦関係、親子関係、友人関係、職場関係…
どんな間柄でも起き得ることです。
そして、自分の理解者だと思っている相手ほど、「何で?」という威力は強くなります。
つまり、それだけ相手に求めている期待が大きいということです。
あなたが言われた側、言ってしまった側のどちらであっても、相手に求めたものがあったから、傷ついたという結果が起きたわけです。
それを探っていく上で、「愛」について説明したいと思います。
あの人の喜ぶ顔のために行動できる=愛である
誰かを愛するのは、好きということではないことを知っていますか?
誰かのために注げること、込められることが愛です。
人を愛するの中に”見返り”は存在しません。
例えば、赤ちゃんにどんなに一生懸命尽くしても、赤ちゃんが何かをしてくれることはありません。
今日は、お世話大丈夫だから1日好きにしてて!
なんて言うことはないですし、オムツ替えてくれたり、ミルクくれてありがとうとも言ってくれません。
でも、ママたちが救われるのは、赤ちゃんが時折見せてくれる「笑顔」があるから報われるものです。
また、ママが抱っこした瞬間にピタッと泣き止んでくれた日には、自分の価値が大きいと評価された気持ちになれると思います。
これらを夫婦に置き換えようとすると、不思議なことにうまく行かなくなるんです。
・美味しいとも不味いとも言わない
・ごめんねと言ってくれない
・大丈夫と心配してくれない
・本当に好きなのか?と疑うほど言葉がキツい…
こんな評価をしてしまっていることに気づいていますか?
あの人が喜ぶと思ってやったことの”見返り”に対して、不平不満で返しているんです。
言葉や態度で返してくれないことは、自分を“否定されている”と捉えてしまいます。
動機は「愛」だったはずなのに…
いつの間にか
見返り次第で相手を判断しているのです。
つまり、分析すると、
「まず、自分の肯定を相手にせよ!」
と求めていることになります。
んー!相手のためにって難しいですね!
結局、どうしたらいいのでしょうか?
深く考えていきましょう。
結局、どうやって人に寄り添えばいいの?
自分の中にある想いが、どうしても消せなかったら、寄り添えない人になってしまうのでしょうか?
それとも、愛の薄い人間だと落第点をもらってしまうのでしょうか?
3つの視点に分けて、紐解いていきましょう!
自分の思い通りは寄り添いじゃない
まず、自分を戒めることを知りましょう。
誰かに寄り添おうと決めたのなら、自我は置いておいた方が好ましいのです。
どんなに暴言を吐かれたとしても、そこをピックアップしてしまったら、寄り添うどころか、相手を攻撃する態勢に変わってしまいます。
余裕のない相手は、あなたを気遣えるはずもないのです。
それを忘れてはいけません。
今だけは、クッションになる。
そのくらいの心構えは必要です。
赤ちゃんのお世話と同じ原理です。
報われるのは、ずっと後でもいいじゃないですか!
「あの日、ありがとう」
そう言ってもらえた方が、何万倍も嬉しいはずです。
相手の言い分に従うは寄り添いじゃない
寄り添う=奴隷のように言うことをきけばいいと勘違いする人がいます。
相手の要求にただ従うことは、これも、寄り添いではありません。
なぜなら、相手が要求することをすべてやることが相手のためになっているでしょうか?
手助けができたとしても、自分でなくてはできないことがあるはずです。
例えば、半身麻痺の人の介護をする時、麻痺のない手でやれるように支援することが大切です。
利き手が麻痺の場合、不便ですし、相手に頼った方が簡単で楽です。
でも、それは相手のためにはなりません。
逆に相手から大切なことを奪うことにもなります。
子育てで言えば、我慢をさせないことが正しいのか?という問題と同じです。
必要な時に手を貸せるのが寄り添い
では、自分のエゴを押し付けず、相手の言いなりにもならないことが寄り添いだと言うのなら、どうするべきなのか?
・応援をやめないこと
・放棄しないこと
・不必要な手出しをしないこと
・相手の反応を重要視しないこと
これが寄り添いです。
相手が望んでいるだろうなと思うことをやり続けることは難しいですし、失敗もします。
でも、味方だからという想いや、そこには愛があるからこそ、ずっと見守ることはできるし、相手が転んでしまったら、即座に手を差し伸べることもできます。
あなたなら、どう感じますか?
「ずっと、そばにいてくれたんだね」
そう思いませんか?
まとめ|これまで寄り添いだと思ったことは何だったのか?
寄り添っているつもりが、相手の反応を期待していませんでしたか?
寄り添ってもらう側も、寄り添う側も、自分の価値基準で相手を判断してきませんでしたか?
あの人は、本当に寄り添ってくれなかったのでしょうか?理解してくれなかったのでしょうか?
あなたは、寄り添っていたのでしょうか?
相手を理解していたのでしょうか?
たくさんの疑問や考える点が残ったと思います。
最後の答えは、あなたの現実ですからオリジナルの演習問題です。
その問題を解くヒントは本文に書きました。
あなたの思考というフィルターで判断せずに、相手本意に「寄り添う」ということを考え直してみてください。
きっと上手くいきますよ!
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