Iris(イーリス)プロフィール
イーリス
プロフィール
AYAMEでは、心身一如(心と身体の繋がり)を大切に考えています。
心の負荷を抱えていると、身体の調子まで悪くなってしまったことはありませんか?
また、身体の不調が心に現れてしまうこともあります。
私は、なぜ自分が不幸だと感じるのか、どうして自分ばかりこんな目に遭うのか、どうして相手はわかってくれないのか?
自分の人生で何度もぶつかる壁を考え続けてきました。
そんな時、気なしに読んでみたアドラー心理学は、私がこれまで抱いていた真理の答え合わせにすぎませんでした。
この世がなぜ生きにくいのか、当たり前とは何なのか…考えても答えがないものです。
しかし、
今既存する何かで大きく解決ができるのならば、もっと豊かな世界になってもいいとは思いませんか?
私は、せっかく生まれた命が幸せを知らずに終わってしまうことに疑問です。
幸せになるために生まれはずなのに、幸せになることを放棄している人が多いと感じます。
よくある真理が幸せへ導けるのだとしたら、今悩み苦しむ人がいることに疑問なのです。
私の真理を固めるのに学びを与えてくれたものが、アドラー心理学・ヨーガスートラ・空海があり、これらは、私に自信を持たせてくれました。
あなたが私たちを必要としてくださるのなら、極上の人生へと導く1つの光になりたいと思っています。
よかったら、私のことをもっと知ってください。
私の生い立ち
1982年7月27日、名古屋で生まれました。
生まれも育ちも今も、私は名古屋です。
父・母・10歳離れた姉・私の4人家族でした。
父親の暴力と壮絶な夫婦喧嘩を目の当たりにして育ちました。
そんな家庭環境がイヤだった姉は、家出を繰り返したのちに20歳で結婚してしまいました。
私は、自分の居所がさらに無くなることがイヤで、母親に「なぜ結婚させたんだ」と食って掛かり困らせたものです。
父親とは、食事をする時だけ顔を合わせるような生活を心掛けていました。
でも、本当は、父子仲良くしている友達が羨ましくてたまりませんでした。
私もお父さんと手をつないだり、冗談を言い合ったり、笑い合える生活がしたい…
幼いながらに望んでも叶わないことを知っていたので、そんな儚い想いを抱える自分を無視していました。
人と合わない学生生活
小学校低学年の頃、どんなに酷いことをされても、友達としてつるんでもらうために必死でした。
理不尽なことを突き付けられた時、姉が教えてくれました。
「そんなことを強要する友達は、友達なんかじゃないよ」
子供ながらにハッとさせられました。
でも、イヤなことを言う部分ではない姿を好きだと思って、必死に付き合おうとしていたんだと思います。
すごく鮮明に覚えているのは、小学校5年生の時、新しいクラスになった時…喋れる友達がいないなぁ~とぼんやり思っていました。
そんな私と同調してくれる1人の友達に出会います。
この頃に、集団の1人という感覚ではなく、「私は私」という個性が芽生え始めていたんだと思います。
中学生になり、熱心にやれる部活も存在せず、幽霊部員を続け、退部を考えていた頃に話しかけてくれた子がいました。
同じクラス、同じ部活だったことも知らないほど、私は他人に興味を持っていなかったようです。
その子は、後にかけがえのない親友となったものの…中学の頃だけの親友で終わってしまいます。
私の学生生活で何度もめぐってきた課題は、「とある子を仲間外れにする輪」と「そこに関わらない輪」の2つがありました。
最初、仲良くなるのは「とある子を仲間外れにする輪」でした。
でも、それが苦痛になり、「そこに関わらない輪」へと身を置き換えることを何度か経験しました。
何となく、ずっと友達がいた私ですが、ずっと親友とか、ずっと友達と呼べる人はいません。
みんな役目を終えるかのように消えては、新しい人が現れるそんな対人関係の学生生活でした。
居場所を探し続けた恋愛
私は、家庭環境が温かなものでなかったからなのか、強い絆を築くことに夢中でした。
誰かに夢中になっていれば、ツライことが忘れられるような恋愛依存に近い感覚もあったと思います。
高校1年生の夏、大好きだった人と付き合うことになりました。
でも、付き合うことに躊躇した私です。
もしも失う日が来たら…
ずっと友達のままがいい…
そう思っていた自分を抑えることもできず、彼と付き合い2年が経った頃、なぜか彼よりも別の人を選ぶという、自分でも理解ができないことをしてしまいました。
そこからは、ずっと数珠つなぎに新しい人と付き合い、別れ、また…を繰り返しました。
彼と別れてから、彼以上の人が現れることもないのに…
そんな中、同じように寂しさを抱える人と出会い、20歳という若さで結婚する道を選びます。
自分の家族と義家族
実母は、私が高校を卒業すると同時に離婚がしたいと言いました。
はじめて、母の本音を聞いた気がして、やっとこの家庭と手を切ると決めてくれたんだと嬉しかったです。
しかし、別居話は、私も巻き添えを食らいました。
5年間ボランティア活動をしてきた老人ホームでの就職が決まっていた私の内定を取り消すと暴言を吐いたり、職場に乗り込んできたり、母ではなく私への執着がこの日を境に始まりました。
いつしか、心が壊れ、突然泣き出してしまったり、情緒が安定しなくなっていました。
身内と呼べる身内もおらず、そんな最悪な家庭環境で育ったとも言い出せず、包み隠した結婚生活が始まりました。
夫は、4人兄弟でしたし、義母姉妹は仲良く、盆正月になれば大所帯で集まったりするような家庭で育った人でした。
最初は、自分にはなかった家族が大勢できたことが嬉しかったけれど…
それを他人と呼ぶのでしょうか?
長男、二男の存在も義母には「2人とも無計画で出来た子なんでしょ?」と大勢の前で言われたこともありました。
結婚の順序は間違えましたが、私たちの中では、2人とも欲しくて授かった子です。
無神経とも言える心無い言葉が何度も義家族からは言われ、その度に傷つきました。
産後、体型が戻っていない私に対して義兄は「何その服?」とデリカシーのないことを発したこともありました。
結婚生活が続く中で、うつ病になった私のことを義父は「そんな考え方をしてるからうつになるんだよ!」と発した日もありました。
私が望むものは、ここにもないのか…落胆したものです。
どんなに大切にしても、こんな言葉を吐かれる覚えなどない私のことを夫は見てみぬふり、夫婦喧嘩も絶えなくなっていきます。
結婚生活中に発症したうつ病
今の言葉で言うと、ワンオペ育児をしていました。
夫は、朝から夜中まで仕事で帰ってきません。
でも、私は、夜中に帰る夫を待ち、食事を用意し、一緒に食べる生活をしていました。
長男が1歳目前の時、最愛の大好きだった彼を事故で失います。
この頃、男女関係を超越し、唯一無二の存在でした。
結婚こそしなかったけれど…私にとって何もかも完璧な人でした。
あの日、失いたくないから付き合いたくないと思った予感がこのことだったのか…と打ちのめされました。
彼の死については、長年考えさせられてきました。
この場で簡潔に書くのなら、一緒にいなかったから、私は後追いすることもなく、今も生きている。
そして、自分の力で歩くことができるようになれたということです。
そんな夫にも言えない闇を抱えながら、若かったとはいえ、二男が生まれてからは、長男を昼寝させられなかった(昼寝すると夜中の1過ぎまで寝ない子)で、赤ちゃん返りで、二男に暴力を振るってしまうので目が離せず、本当に大変でした。
どんどん、心は疲れ切っていきます。
夫の休みは、昼過ぎまで寝ているので、夫が起きて出掛けられるのは夕方…心は荒む一方でした。
そんな中、夫は浮気を繰り返すようになっていきます。
保育園に預けて働くようになっても、私が夫を構わないということで、不満を持たれることもありました。
一体何を私に求められているのだろう?
自分の癒しがどこにもなく、友達のすすめで精神科を受診します。
薬を飲めば、どうにかなるのかな?
そう思って、飲めば飲むほど…私は壊れていきました。
本当に自分をコントロールすることもできなくなり、それを夫が支えてくれるどころか、再構築しかけた夫婦関係だったにも関わらず、またしても浮気行為などが発覚して限界を迎えます。
長男が7歳、二男が5歳の時、離婚をしました。
義家族からは、自分の息子がやったことは、すべて私のせいだと言われ、離婚してもまだこの姓を名乗るなんて図々しいくらいのことも言われ、孫たちが会いたいと言うのなら、会わなくもない。
そんなメッセージを元夫から受け取りました。
正直、今でも悲しいし、そんなにも簡単に昨日まで可愛がっていたはずの孫を捨てられるんだ…と驚きました。
子供たちの名前は、姓名判断もしています。
離婚したからという理由だけで、旧姓に戻すことを考えませんでした。
それに、私には帰る家もなかったので、旧姓に戻す意味もなかったのです。
上手くいかない母子家庭
長男に与えてしまった心の傷は深く深く…
私が居ないと不安になる子でした。
母に留守を頼んでも…
ママー!!
と、外に向かって泣き叫ぶ。
仕事にもならず、本当に困りました。
高校は、福祉科の学校を出ているのですが、対人関係や学校のスタンスが飲み込めず、介護福祉士の試験には落ちました。
母子として、生活していくために資格の取り直しを決意し、再出発を目指します。
念願叶って受かった私は、生活相談員として働ける職場を探します。
そこで巡り合った会社は、とんでもない会社で、無知な私は、さらなる苦労の日々へと突き落とされていきます。
会社は、借金まみれ…借金を隠すために別会社に名前を変更。
職場には、借金の取り立てが、デイサービスの営業中にも関わらずやってきます。
そして、何も揃っていない会社は、保健所からも指導対象となり、その始末に追われます。
また、心が崩れていきます。
振り出しに戻った私。
どうして、こんなにも上手くいかないんだろう…
もう、生きていても意味がない。
そんなことを考える毎日でした。
人生を見つめ直す…
二度目の精神科の薬での失敗。
そのダメージは、大きかったです。
精神科の薬は、急な断薬は危険です。
なぜかと言えば、定期的に作用していた薬が切れることで、離脱症状を引き起こすからです。
私の場合は、起き上がることができなくなり、廃人のようになりました。
仕事でまた心が崩壊して、どうにもならなくなった私は、自殺企図を繰り返し、医師から薬を取り上げられてしまいます。
(処方しないということです)
もう生きる意味ない…
そう感じていた時、とある知人が
「やってみたいことないの?死ぬのはその後でもできる」
そう私に投げかけてくれました。
目標や目的を持つことの大切さを教えられたのです。
そこから、今の私へと繫がる道を歩み始めます。
他人に与えられる言葉や示される行動を真に受けていても意味がない。
大切な人には、ちゃんと注ぐということをしよう。
今度こそ、自分を大切に生きたい…
そんなことを考え始めた頃、今の夫に出逢います。
私の身体に起きる不調の謎、私の心を取り戻すための施術…夫の抱える心の闇も知らずに、私は夫に支えられてきました。
長年私を苦しめた胃痛のコントロールも今ではできるようになりました。
原因も納得できるようになりました。
私の場合は、冷えです。
不健康だった私は、健康的な身体へと心へと変化していきます。
まとまらなかった思考はまとまるようになり、今ではこのサイトを構築できるまでになりました。
何がこんなにも大きく変えたのかと言えば…
・自分を認めること
・相手を認めること
・不要なことを知ること
・不要なことから手を引くこと
・必要なことだけをやる
これらを自分の中に落とし込むことができたからです。
自分のことを自分で認める前に、他人に認めてもらおうとしてきました。
相手のことを否定ばかりして、認めることをしませんでした。
すべてを自分ごとと捉えてしまっていました。
相手がやるべきことを見守ることを知りました。
自分がやるべきことを精一杯やることに気づきました。
人生を見つめ直して変わったこと
私が自分の人生を見つめ直して大きく変わったことがあります。
自分の両親のことです。
父も母も、それぞれ両親から確かな愛を受けて育ってきませんでした。
寂しかったことでしょう。
愛されたかったことでしょう。
そんな人が、子供の確かな愛し方を知っているわけがないんです。
父は、自分がちゃんと満足に愛されたくて、母に暴言や暴力を振るっていたのでしょう。
愛し方を知らないから、愛せないなんて必然的な話です。
そんなキャパがない両親に求めても仕方がなかった。
そこに気づきました。
だから、自分が愛されたかったこと、足りなかったことを思いつく限り、子供たちに注ぐことができるようになりました。
一時期は、長男は不登校児でした。
それでも、高校も卒業し、やりたいと思った音楽の世界へと進もうとしています。
長男に娘に手が掛かって、ハグはたくさんしてきたけど、面と向かって会話ができなかった二男とも大喧嘩をしましたが、今では二男のいい友人になれたと思います。
娘には、自分で歩くための盾の構え方、武器の持ち方を教えることができています。
夫とは、些細な言葉でぶつかってしまうことはいまだにありますが、それでも共に歩くという同じ目標を掲げて今日も進んでいます。
夫が1人で立てないのなら、一緒に立てばいい。
協力することが夫婦として何よりも不可欠です。
今、着実に、自分が欲しかった温かな家庭を築くことができています。
みんなで成長する家族、それが私の築いているものです。
たくさん失敗したから、たくさんの気づきを得ることができました。
失敗は、ダメなことではないし、学ぶための大切なスパイスです。