もしも、人の心が読めたなら…
そんなことをぼんやり考えたことはありませんか?
大切なあの人が何を考えてるのか知りたい。
自分のことをどう思ってるのか知りたい。
エスパーのような超能力に憧れを抱いてみたり、読心術みたいなものを身につけられないだろうか?と考えてしまうのは…
それだけ、あなたが不安だから。
あの人の心の中が読めたら、少しは自分が救われるんじゃないか?安心できるんじゃないか?と考えるがゆえでしょう。
この記事では「人の心を読む覚悟と必要性」について深く触れていきたいと思います。
②本当に人の心を読む必要があるのでしょうか?
③実は、自分の心を読む必要があるのではないでしょうか?
※この記事では「鬼滅の刃」をわかりやすい題材として表現しています。
よって、ネタバレになる部分を含むのでご注意ください。
人の本質を見抜くために主観が邪魔であることの根拠
鬼滅の刃、立志編の柱合会議では、鬼殺隊柱が勢揃いするシーンです。
・泣いている人(悲鳴嶼行冥)
・カッコイイとときめいている人(甘露寺蜜璃)
・上の空の人(時透無一郎)
・どこ見てるかわからない人(煉獄杏寿郎)
・ド派手に斬っちゃうと言う人(宇髄天元)
・木の上にいる人(伊黒小芭内)
・気性荒くブチ切れてる人(不死川実弥)
・笑顔で毒を吐く人(胡蝶しのぶ)
・仲間に馴染んでない無口な人(冨岡義勇)
この中でも、特に不死川実弥に関しては、主人公の炭治郎の妹の禰󠄀豆子を斬りつけたり、自身を傷つけて、鬼である禰󠄀豆子を挑発するところが印象的なシーンです。
禰󠄀豆子を助けるために炭治郎は、傷だらけの体で立ち向かおうとするも、伊黒小芭内に抑えつけられてしまうし、それらを挑発する柱たちがいます。
この野蛮な行動に対して、何なの?なんて思って、嫌なシーンだなぁと思ったものです。
これらは、私の第一印象ですが、鬼滅の刃を読み進めて行くと、
9名の柱たちの印象は大きく変わって行きます。
無限列車編では、煉獄さんの勇姿に多くの人が涙を流しました。
柱合会議の場では、どこを見ているのかわからないし、残酷なことを平然と言っていたのに「若い芽は摘ませない!」と、負傷した炭治郎たちに指一本触れさせず、突然現れた上弦の参の猗窩座と対峙します。
命尽きるまで闘い続け…
「母上、俺はちゃんとやれただろうか、やるべきこと、果たすべきことを全うできましたか?」
と、亡き母に尋ね、母が微笑むと、安心したように眠ります。
誰が、最初から予測できたでしょうか?
煉獄さんは、どこを見ているかわからない視点で、思ったことをズバズバとストレートに言うキャラでした。
鬼滅の刃は、読み進めれば読み進めるほど、何度も良い意味で度肝を抜かれ、裏切られていきます。
度肝を抜かれるのは、すべて自分で創り出した主観があるからこそです。
第一印象で人は決まると言いますが、本当にそれで判断して良いのでしょうか?
日常生活では、あなたの主観ばかりでつくられていき、相手の評価を変えてしまいます。
果たして、あなたの目に映るあの人は、あなたの思う通りの人でしょうか?
あなたは、あの人の本当の姿を見つめているでしょうか?
人の心を読むためには、あなたの中にできた主観を取り除かなくては、正確に読めません。
それを裏付ける話を次に書きます。
相手の言動は、あなたへの100%の答えではない
鬼滅の刃に話をまた戻します。
柱合会議では、不死川実弥はすごく嫌な奴に見えたと書きました。
鬼滅を読み進めて行くと、1番意外性を突いてくるのは、不死川実弥の中身です。
不死川実弥には、玄弥という弟がいます。
実弥は、ぶっきらぼうで、気性の荒い性格をしています。
一方の玄弥も、気性の荒い性格のように見えます。
ですが、2人にはそのように振舞う理由があります。
実弥は、弟の玄弥には、自分のように鬼殺隊士として生きるのではなく、普通の人として、家族をつくって幸せになって暮らして欲しい。
その幸せを守るために、実弥は鬼の首を狩り続けています。
一方、弟の玄弥は、実母が鬼になり、兄実弥が必死に自分を守ってくれていたとは知らず、兄を人殺し呼ばわりしてしまったことを悔いながら、いつか兄に認められたいと鬼殺隊に入隊します。
ですが、呼吸の使い手にはなれず、鬼を食べるという方法しか使えませんが、それでも兄に近づきたいと思っています。
この両者の想いは通じません。
実弥は、鬼殺隊から去れと、玄弥に冷たく当たります。
しかし、それは実弥なりの愛情表現です。
玄弥は、いつか兄に通じる日が来るんじゃないかと想いを馳せ過ごしていますが、思春期真っ只中です。
周囲の人たちにも照れ隠しから、横暴な振舞いをしてしまうので、最初は煙たがられることになります。
それが照れ隠しなんて受け取ってもらえないのです。
自分の目に見えないことも、目に見えることだけで判断しているということを忘れてはなりません。
だからこそ、人の心が読めたなら…
人の心が読めることは自分にとって幸せなのだろうか?
さて、私から1つ質問をしたいと思います。
あの人の考えていることが読めたら、あなたは生きやすいのでしょうか?
何を考えているかわからないから、不安になったり、腹を立てたりするわけです。
それが目に見えたら…楽になれそうな気がしますよね?
相手の思考が見えたら生きにくい
ハッキリ言います。
相手の思考が見えたら生きにくいです。
プラスに使えると思って、人の心が読めたならって思うものだと思いますが…よく考えてみてください。
あ、今ウザイって思われた…
めんどくさいって思われた…
また?!とか思われてる…
プラスのことよりも、マイナスなことがバンバン伝わってきたら、ものすごく邪魔です。
人は勝手なものなので、良いことよりも悪いことの方が印象に残ります。
仮に相手の心が読めたとしても、それを正確に受け取ることができなかったら、心が読めることで落ち込む一方になります。
ある瞬間の行動は鬱陶しいと感じたり、疲れてるのに…と感じたりすることはありますよね。
どんなに可愛い我が子でも、自分が疲れている時に癇癪を起こされたら、ひとたまりもありません。
でも、あなたが我が子を愛していないという結論にはなりませんよね?
その瞬間に思ったことと、常に抱いているものは別の話です。
それを統括して、相手がどう考えているのかを読むことは、心が読めたとしても難しいものなのだと思います。
つまり、結局、今見て感じていることと、何も変わらないのでは?という話です。
しかし、相手が話せない場合は、ちょっと別の視点を持ちますよね。
相手の心を読みたい時は、自分の想いを満たしたいから
例えば、要介護状態の親とかパートナーを看ている時、相手が喋れないのなら、これでいいのか確認ができないというケースがあります。
こういった場合は、それでいいよ!とか、もっとこうして欲しいと言われたいものですよね。
想像でしか行動できないのだから、不安になるものです。
あなたは、大切なことを忘れていないでしょうか?
どんな相手が対象であったとしても、あなたと築いてきた時間があったはずです。
相手と積み重ねてきたもの、紡いできたものをあなたはちゃんと見つめていますか?
自信がない、信じられないと言って、あの人と積み重ねてきたこと、自分のやってきたことに目を伏せていませんか?
煉獄さんは、お母さんに”ちゃんとやれたでしょうか?”と確認していましたね。
その背景には、ちゃんとやるために努力していたんだと言えるものがあったのだと思います。
母が見ていてくれたら、こうであらなくちゃ!
その一心で最期まで生きたのだと思います。
または、自分のポリシーに反しないように生きたとも言えるでしょう。
でも、相手の心が読めないからこそ得られるものがあるんですよ!
相手の思考が見えないから感動できる
煉獄さんは、命尽きるまで炭治郎たちを守り抜きました。
そんな息子とは裏腹に…煉獄さんの父槇寿朗は、毎日お酒を飲み床に伏せています。
煉獄さんの最期の言葉を届けるために、炭治郎は煉獄家に向かいます。
そこで、我が子を罵倒する父槇寿朗と炭治郎は揉めてしまいます。
こんな人が鬼殺隊の元柱だなんて…
炭治郎と同じで、そんな想いで観た人も多いことでしょう。
父槇寿朗は、どうせ恨みを残して死んでいったんだろう…と耳を傾けません。
しかし、煉獄さんの父への最期の言葉は、父への恨みつらみなどなく
「体を大切にしてほしい」でした。
妻を失い、柱としての自信も失い自暴自棄となっていた父槇寿朗が、この言葉を聞いて涙が溢れる後ろ姿が描かれています。
どうしようもなかった自分へ残してくれた我が子からの最期の愛の言葉…
後には、産屋敷家の護衛部隊として、姿を現す場面も描かれており、我が子の死と遺言を胸に再起した姿に、こちらもまた胸を打たれます。
ダメ親父のように映った父槇寿朗、本当は悲しくてどうしていいのかわからなかっただけ…好きで酒に溺れていたわけではなかったのでしょう。
自分はダメなんだと、勝手に思い込んでいたから、相手の言葉に意表を突かれ、自分を取り戻すきっかけにもなるのです。
人を変えるだけの想いは、目に見えないからこそ、こうして伝わるものです。
思い込みすぎるのは良くないことですが…
“そうじゃなかったんだ…”
そう気づける出来事は、相手の心が見えないからこそ得られる大きな感動です。
でも、そんなハッピーエンドばかりあるわけじゃない!と思う節もありますよね?
神様は無駄なものを与えなかったを考えられたら勝ち!
私たちには、5つの感情(喜・思・恐(驚)・悲・怒)があります。
この5つの感情は、相手が感じたであろうことを共感することはできますが、自分にしか感じることができないものです。
時には共感さえしてもらえないこともあるでしょう。
でも…
相手が何を考えているか知りたい…
これは生きている以上、永遠の課題です。
わからないから、相手が笑顔になるために尽くすことができます。
わからないから、相手とぶつかり合います。
でも、ぶつかり合ったから分かり合えることが生まれます。
それが人生の醍醐味で、感動できる事柄です。
また、分かり合えず、縁が切れてしまうこともあるでしょう。
それは、無駄なことでしょうか?
失敗したから、傷ついたことがあるから、裏切られたから…こういう痛い経験をしてきたから、喜びを感じることができます。
こんなことがまた起きたら…そう不安ばかり感じて動き出せないこともあるでしょう。
例えば、そんな想いをSNSで吐露したら、共感してくれる人がいたり、励ましてくれる人がいたりします。
人の心が読めなくて、悲しくて人間不信になっていたはずなのに…心が温かい。
そんな想いを受け取ることだってあります。
神様は、そういう感動をたくさんすることに人生の意義があるとお考えになられているのだと私は思います。
失敗しなくては、喜びを感じることはありません。
マイナスを知らずにプラスを感じることはできないのです。
人生は無限に良いものであること
無限に良いものにできること
そこに気づき始めたら、あなたの人生は楽しくて仕方ないものに変わりますよ。
まとめ|自分の主観を抜いて相手を見つめてみよう
・いつだって左右されるのは、相手が自分のことをどう思っているのか?
・自分の悪い予想を払拭してくれたら自信が持てるのに…
きっとこんな想いが発端で相手の心が読めたならと考えたことでしょう。
そうではなくて、
自分の主観=相手への思い込みを取り除いてみてください。
ありのままのあの人を見つめてみてください。
あなたの主観で相手の言動を決めつけていませんか?
あの人は、本当にあなたが思っている通りのあの人でしょうか?
私が煉獄さんや不死川兄弟に抱いていた最初の主観を打ち砕かれたように、見えているあの人の姿は、あなたの主観でしかないかもしれません。
きっと、あなたが見えていない姿、あなたの気づいていない部分が、あの人の本当の姿です。