2017/05/09

DVな父親と過ごした18年…長年引きずったトラウマ

 




隣の芝が青く見える…物心ついた時にあった感情は、「父親嫌い」

友達のお父さんって、優しそうで、ユーモアがある。そして、家族が仲良し…いつも心の中にあったのは、隣の芝が青く見えた。つまり、幼いながらに羨ましいという想いと、自分の意志とは、無関係に父親は、「嫌な存在だ」という想い。こんな生い立ちを恨んだこともありました。また、「生まれてきたくなかった!」と母に言ってしまったこともありました。

自叙伝という事で、私の生い立ちについて書いてみたいと思います。辛い想いをされている方も、「いつか前に向ける!」と感じて頂けたら、幸いです。

我が家ルール…父親のDVとは?

世の中には、私よりも辛い想いをされている方もいらっしゃるかもしれません。我が家も随分、”ふつう”とは、かけ離れた家庭だったと思います。

しかし、衝撃的な内容が多いので、割愛しながら書かせていただくことにします。

暴力、心の傷

母親に自由はなく、あるのは、束縛と嫉妬の塊

私が、朝起きると…父親は、トラック運転手の仕事をしていたので、早朝に出ることが多く、基本的に朝から顔を合わせることはなく、休みも、今考えれば…そんなに多い人ではなかったので、救いのある時間だったと思います。夜は、19時頃には、帰ってきていたように思います。

当時、携帯が普及する前でしたので、今とは全く違う時代です。公衆電話を見つけると、やたらと家に電話をしてくる父親でした。それも、コール数は、3コールくらいで取らなければ、機嫌が悪くなるほどの”電話魔”です。もちろん、特に用事があるわけでもありません。そんな父を相手にしなければいけないので、母は、トイレで用を足すことも容易にできず、代わりに子どもが出ることも”許されない”ような父親でした。

そんな父親なので、母は、パートに出ても、たまの職場仲間からのランチの誘いも行けるわけもなく、挙句の果てに…慰安旅行でさえ、「何しに行くんだ!」と喧嘩になりました。幼いながら覚えているのは、社長にヤキモチを妬いているようでした。

そんな母は、断ることしかできなかったから、いつしか周りは、ランチの誘いすらしてこなくなったんだと、悲しげに話していたのを覚えています。

小型犬のおとなしい犬にも暴力…動物虐待と自分の恐怖との闘い

私には、姉がいるのですが、名目は、姉が飼い主である犬がいました。姉とは、歳が離れているので、先に結婚し、家を出てしまった寂しさから、うちに来れば虐待される目に遭う可能性があるのに、私は、1人の寂しさを和らげたくて、犬を実家に連れてきたりもしていました。また、姉も結婚生活で苦労をしていたため、犬を想うと、ご飯が食べられて、小さい子のいない我が家がいいのでは?と思っていました。

本当におとなしい犬でした。他界して、18年ほどになります。最期はとても悲しい結末、寄生虫に感染したことが原因でした。

父親から受ける虐待にも耐え、助けたくとも、自分もやられる恐怖しかありませんでした。そうなると、どうしてあげることもできず、きっと、犬は、恨めしかったでしょう…。どれほど、自分が醜いと感じたかわかりません。守りたかったのに、守れない。

いつも、姉のことと、父親のことで、幼い時から頭を悩ませたものでした。

父親のDVを見て育ったため、トラウマとなったのは、父親世代

いつも理不尽なことを並べるのが父親です。

私が、ピアノを弾いていて、気のせいかと思った音は、夫婦喧嘩であったり…目の前で、何度母が殴られる姿をみたことかわかりません。ある日には、仕事から帰ってくるなり、「こんなもの食えるか!」と流し台に、夕食をぶちまけたこともありました。

何かの返事を「NO」と答えようものなら、そこから血の雨が降ります。どんなに嫌な事でも、やりたくないことでも、「YES]と答えなければ生活していけませんでした。

幸い、男性恐怖症ではありませんでしたが、父親世代に当てはまるような男性とは、大きな壁を作ってしまい、過去の結婚相手の舅に対しても、仲良くしたいのにできないという矛盾した想いを持っていました。

いつ大声を出すかわからない。奴隷のような扱いを受けたくないという想いがありました。

キチガイと思われていたと思うと悲しい過去

当時は、珍しいのではないでしょうか?母は、車の免許を持っていないのに、車を二台持ちしていました。一台は、通勤用の軽自動車。もう一台は、お飾りのぼちぼちな値段の車。お金が有り余っているような家庭でもありません。

そのお飾りの車とは、団地の駐車場にシートカバーを付けた車です。

シートと言っても、想像できる方の方が少ない事でしょう。

まず、車に毛布を全体被せます。そして、三重ほどシートを被せて、父親の田舎に出かける時などにしか乗らないのです。

風が吹く日は、シートを被せるのがとても大変です。毛布を抑えながら、やっても飛ばされるので、父親の機嫌は悪くなるばかり…人目が気になるほど、子どもながらに手伝わされることが、本当に苦痛でした。

見栄のために車を持つ必要なんて、乗りもしないならいらないです。毛布にシートを被せるのも、傷つけられたくないから…これだけでも、十分に奇妙な家族ですよね(笑)

理不尽の積み重ねの日々

行きたくもない場所でも、誘われたら、行かなければならない。つまり、命令だったと思います。

食べたくないものも、「今は、お腹が空いてないからいらない」そんな答えも許されませんでした。

ふつうの人なら、納得できるようなことが、父親には納得できません。

いつしか、夫婦喧嘩に発展したら、仲裁に入って欲しいと言われたことがありました。

その通りに「やめて!」と、子どもながらに言ったことが一度あります。結果は、更にヒートアップ…「うるさい!」という言葉と同時に目の前にあったのは、父親の拳でした。

そうすると、母が私を守るために盾になります。それを見るのが、させるのが、本当に辛かったです。夫婦喧嘩に発展したら、何故か、見学者にならなければいけません。喧嘩のどこかで、呼ばれるのです。

姉がいた頃は、”反省文を書け”ということを言っていたと思います。

離婚を匂わせ、自分は田舎に帰ると言った時には、”ラッキー”と思いました(笑)しかし、その喜びも束の間…「お父さん、出てっちゃうんだぞ?いいのか?」と問われ…別にどうぞ?って思う気持ちと真逆の「行ってほしくないです」という回答をしなくてはなりませんでした。

母は、いつも巻き込みたくなかったことでしょう。しかし、いつも父は、巻き込むのです。

母への愛が、今の私を形作る一部です

母は、とても不器用な人です。そして、私より、あっけらかんとしているような人でもあります。母が耐え忍んでいる姿は、私のいつも防波堤でした。

私がある程度の素行で踏み止まれたのは、母がいたからこそ

お話してきた通り、割愛していますが、それなりな家庭です。

家にいることが、窮屈で、苦痛でした。非行に走ってしまえば、楽になれるんじゃ?なんて、思ったこともありました。

けれど、私は、どんな時も、母の姿が浮かんできて、やりきれないなと考えていました。

ただでさえ、結婚生活が上手くいってない姉と父親に泣かされる日々を過ごす母…そんな母に私まで…そう思ったら、できないことだらけだなと反省することが多く、歯止めがありました。

逃げてしまえば楽だったことも、自分の意志が弱くて迷惑をかけたこともありました。

母がくれる愛に、愛を返せるようになることというのは、親になるだけでもダメなことだったなと、深く反省しています。ようやく、”愛”というものがわかってきたと思います。

今日までに、何度母を騙したことでしょう…。

可愛いものであれば、学校に行ったフリをして過ごしていたこともありました。

自分が積み重ねてしまったことが、間違っていたことだったり、違う考え方が持てていればという反省は、誰しも持てることではないでしょう。現に、姉は、私とは違った感性の人です。

時が過ぎれば、許される…そんな甘い事は、存在するとは思いません。

それは、自分の勝手解釈です。

過去の過ちは、きちんと反省と学びを持って、経験という磨き粉に変えねばなりません。いつまでも、立ち止まることは、反省ではなく、ただの言い訳や、逃げです。

母が口にした”離婚への決意”と、その歩み

高校3年生の年が明け、卒業が見えてきた頃でした。何気なく、同じ部屋にいた時に、母が不意に「家を出たいんだけど…」そう告げてきました。その時の私は、「お母さんが決めたことなら、いいよ」そう答えました。

それまでは、傷つけるような言葉を父親への苛立ちからぶつけてしまったり、「こんな家なら、生まれたくなかった」と言ったこともありますし、「早く離婚してよ!」と困らせたこともありました。

それまで、口にしなかった母の想いをやっと聞けた気がしました。

それからは、父親があっさりと納得するわけがないと、容易に想定できますから、命の危険も考え慎重に動きました。

少しずつ、荷物を母の実家に運び、運命の日は、高校の卒業式のあくる日、3月2日です。そこまで、静かに事を運び、当日は、第三者(父親が単独で入っている宗教の方のお宅)にて、離婚の話し合いを…という、父親にとって寝耳に水の状況でした。

私は、別の場所で「生きて落ち合おう」と約束をして、待機していましたが…お決まりの

「イーリスが離婚しろというなら、お父さんは、あきらめるよ。だから、最後にこっちにきてくれないか」

この言葉が、真実であれば…そう思って向かいましたが…やはり罠でした。

私が、「夫婦できめることじゃないかな?お母さんは、別れたいと言ってるわけだし…」というようなことを言ったら、激しく逆上し、怒りの矛先は、私に向きました。第三者のそれも宗教関係の方の家を選んだのは、やはり正解だったのでしょう。父親は、私に暴言と暴力、周りから止められたことで、その場を後にし、無事あの家から脱することができました。

悲惨な暮らしのトラウマから脱するのは、心の折れる苦労

ざっと書くと、私の家庭は、このような家庭でした。何度も、自分が生まれたことを後悔したり、恨むような出来事が起きました。

光、希望

親のせいで、辛い想いを背負ったかもしれません。平穏な家庭だったら、経験しなくてもいい暴力・暴言の恐怖を沢山味わって、子どもの頃過ごしてきました。

しかし、これは、親のせいにして片付く問題ではありません。

自分は、辛い家庭だったから…

それを言い訳に使って、私が今も生きていたら、このAYAMEで発言していくコラム全てが、嘘偽りになってしまうと思いませんか?

心が病むようなきっかけを与えられたかもしれない。そこは、否定しません。

しかし、いつまでも、自分が主人公として生きていけば、如何様にも拓けていくことのできる未来を、例え親とはいえ、他人のせいにしても、時が止まる訳でも、親がその時にうしなった時間を戻したり、心の傷をなかったことにしてくれる訳ではありません。

乗り切って生きる勇気を持てるかは、自分次第。

幸せになるなら、過去との決別は必要です。

それは、自分の学びであったことを認識する作業です。

私は、あの家だったからなのか、自分以外の人に対して、誠心誠意込めて尽くしたい、そうでなくてはいけないのだという想いが沁みついています。

悲劇のヒロインとして生きるのではなく、自分が主人公で、ヒロインであり、ハッピーエンドを迎えよう!その気持ちがあれば、どんな困難も乗り越えていけます。

乗り越えられない壁なんてない。

それは、やはり事実です。

自分の過去を明かすことで、誰かが前を向けるきっかけになればと想い書きました。

また、抜けてしまったような事や、改めて深く書こうと思うことが出来たら、追記していきたいと思います。

ここまで、読んでくださってありがとうございました。

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Iris(イーリス)

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